情熱を燃やす意味

2022年の7月のはじまりはこの先一生記憶に残ることだろう。

7月8日。
衝撃的で、悲しい出来事に日本中が震撼した。

SNSが発達したこの時代、
衝撃的な動画や写真がリアルタイムで拡散され
それを目にした衝撃も重なり、
胸が痛み、無念でたまらなく
眠れなかった人も多かったのではないだろうか。

いろんな意見があり
すべて個々に正解なのだろうと思う事から
ここでは個人的意見は控えたい。

話は逸れるが、昔から私には存在しなかった感情がある。
それは妬みや嫉妬。

他人を見て羨ましいと感じることは幾度とある人生だが、
それでも妬みや嫉妬という感情は私にとっては全く分からないものだ。

ただ、それらが何も産まない事だけは明確に知っている。

妬みや嫉妬のようなものとはそもそも一体なんなのだろう。
そんな事をずっと考えていた。

“ルサンチマン”
この言葉を聞いたことがあるだろうか。

弱いものが敵わない強いものに対して内面に抱く、
憤り・怨恨・嫉妬のような感情。
弱い自分は”善”であり、強者は”悪”だという価値の転倒。
「貧しき者こそ幸いなり」

フリードリヒ・ニーチェのキリスト教批判における中心概念。

権力者、お金持ち、優れた環境で産まれた人を
何かの理由をつけて叩きたがる。
何故かうがった見方でみられる。

そんな世間の風潮がSNSの発達と共にどんどん増していると感じる昨今。

何が人をそうさせるのか。

実存主義哲学者のキルケゴールの言葉にこのような言葉がある。
「情熱をもって生きないと、自分の世界は妬みに支配されてしまう」

妬ましく思う自分を責めることではなく、
情熱を燃やせる対象を見つけることが重要だとキルケゴールは説いている。

東京藝術大学に入ることを小さい頃からの夢であり目標としていた私は一度人生に絶望したことがある。
(それが妬みという感情には変わらなかったが)

それは大学受験に合格した日。

合格した日は、私にとって圧倒的な目標を失った日でもあった。

あの時の絶望感というか、虚無感というか言葉でいい表せられない感情。

人間が生きていく上で情熱を燃やせる対象がどれほど大切なのか実感した。

大人になると情熱を燃やす対象なんてものは見失ってしまうことが多いが、
それが精神的に豊かに過ごせる為に必要なのだとしたら。

万人に共通する”幸せの答え”がない現代においてキルケゴールの言葉は胸に刺さるものがあった。